卒業生の声 木村 共男さん
Graduate's Voice
2018年に
ミシュラン一つ星を獲得
鮨 来村(シンガポール)
木村 共男さん
調理師本科卒業(1997年3月)
服部学園卒業後、「よし寿司」での下積みからはじまり、築地場外市場で一番の歴史のある築地寿司清で握りをおぼえた後、趣味であった食べ歩きでこの仕事を覚えたいという店を見つけては渡り歩くという「流れ」の板前として東京都心で修業。2012年1月にシンガポールへ渡り、高級店「鮨一」「はし田」の立ち上げに携わる。その後、自分の店となる「鮨 来村」をオープンし、2018年にミシュラン一つ星を獲得。
服部栄養専門学校卒業後は、どのようなところで修業をされたのでしょうか。また、修業時代はどのような夢を抱いていましたか。
学校から紹介して頂いた「よし寿司」での下積みからはじまり、築地場外市場で一番の歴史のある築地寿司清で握りをおぼえた後、趣味であった食べ歩きでこの仕事を覚えたいという店を見つけては渡り歩くという「流れ」の板前として東京都心で修業をさせてもらっていました。
見習い時代から必ず独立して自分のお店を、そしてできれば海外でも仕事をしてみたいと考えていました。
その後、シンガポールへ渡ったとの事ですが、なぜシンガポールだったのでしょうか。
お店を動くタイミングでたまたまシンガポールに立ち上げの案件があり、それをお受けした形です。2012年1月でした。
ちょうどそのちょっと前に、「よし寿司」で一緒に見習いをした中澤さん(現Sushi Nakazawaオーナー)がアメリカに行くと話を聞いて海外での仕事の憧れが再燃したところでした。
シンガポールではどんなことに一番苦労しましたか。また、シンガポールの雇用事情や求人事情を教えてください。
「鮨一」そしてそのあとにもう一件「はし田」という高級店の立ち上げに関わらせて頂きました。一番の苦労は日本での時間感覚と職人としての働き方の常識が通じないところでした。荷物は時間に届かない、お客様も予約の時間に来ない、現地スタッフはすぐ仮病を使って好きな時に休みを取ると言った日本ではあまり経験をしたことがない状況が当たり前でした。
2012年当時は就労ビザのハードルは現在ほど高くなく、まだビザは取りやすい状況でしたがここ数年は非常に厳しくなってきています。2019年現在、日本で料理長クラスの給料が無ければビザは取れなくなっています。
日本でも同じ状況だとは思いますが、どこでも職人は欲しい状況ですので自他ともに認められるような腕がある若手の職人さんにとっては大きいチャンスがあります。
最低ラインとして10年以上の経験がビザ申請の時にシンガポール政府より求められます。鮨来村でも板前を募集中です。
シンガポールで自分の店を出そうと思ったきっかけを教えてください。また、シンガポールで外国人である木村さんが自分の店を出すにあたって、大変だったのはどんなことですか(資金繰りや店舗探し、契約関係など)。
きっかけは「シンガポールでの店の立ち上げのノウハウの習得」と「国際結婚(妻は香港出身です)」という、できる条件が整ったからです。この二つが大きいです。
大変だったことは、まず英語です。会社を立ち上げて契約までもっていく時に、日常会話では全く使わない英語を勉強しなければなりませんでした。日本語ですら契約書はややこしいですからそれはもう大変でしたが見習いの時に経験した厳しさに比べれば何でも乗り越えられました。
店舗探しもほぼ5年かかっています。シンガポールは大きな物件がほとんどで、2,30坪の物件には換気がなかったり排水のグリストラップがついてなかったりと自分の考える鮨屋を営業するための最低条件をクリアする物件がほとんどありませんでした。大きな資本や名前が先にあれば力業で越えられることが個人の資金ではできないので絞りに絞りました。
自分の店をやっていくにあたって、心がけていること、肝に銘じていることはどんなことですか。オープン当初にお客さまから言われたことで、心に残っていることはありますか。また、お客さまはどのような方が多いですか。昼と夜では客層が変わりますか。
一番は海外だと思って気の抜いた仕事をしない事です。
お客さんは鮨が好き過ぎて、その為だけに日本に行って名店と言われる鮨屋の食べ歩きをしている方たちが多いので、逆にいい加減な仕事をするとお客さんはすぐに離れていってしまいます。
もう一つ大事にしているのは自分のやりたい仕事とお客さんが求めている店とのバランス感覚です。シャリとネタのバランスの良い鮨を握る感覚と近いものだと思います。もう日本に鮨を食べに行かなくてもここに来ればいいね、と言って頂けたことは素直に嬉しかったです。
お客さんはシンガポール、インドネシアの方がほとんどで日本人のお客さんは少ないです。また会社の接待等はほとんど無く、自身で食事を楽しみに来てくれる方が多いです。昼は女性のお客さんが多く夜はカップルが増える印象です。
シンガポールでお店を出すということで、あえて日本の鮨屋と変えたところはありますか。また、お店をやっていくなかで、ネタや料理、サービスの仕方などをシンガポールのお客さま向けに変えたということはあるのでしょうか。
お客さんとの距離感です。
自分が握っていた時代の日本では嫌がられることの多かった友人に近い感覚での接客が喜ばれると思います。お客様、ではなくお客さんと言った距離感ですね。
もちろん状況にもよりますし一線は大事にしますが、修業時代に親方達に教わった口を動かす前に手を動かせ、ではなく口も手と同じくらいに動かしてお客さんの感情の動きに臨機応変にツッコミを入れられるくらいが大事だと思っています。
あたり(味)については日本より甘味を大事にしています。
どこの国に行ってもローカルフードが示す味の偏りがあります。暑い国では大抵そうだと思うのですが、シンガポールでは甘が強い傾向にあります。そこを見極め、砂糖に頼らない方法で甘味を引き立たせる仕事をするようにしています。
ミシュラン一つ星を獲得したのはいつですか。一つ星獲得の話を聞いたとき、木村さん自身はどのように感じましたか。獲得前とあとで、お客さまに変化はありますか(お客さまの数が増えた、客層が変わったなど)。
2018年です。
ミシェランガイドがよく反応する様な皿への過剰な飾り付けを避け、見た目よりも温度と味を大切にしたシンプルな鮨、つまり江戸前鮨をお出ししていたので正直に驚きました。また仕事を世間に認めて頂けたことは嬉しかったです。
獲得直後は鮨が目的でなく、ミシェランスターのお店が目当てのお客さんが増えましたが、2ヶ月ほどで元通りになりました。新規のお客さんが増えるのはありがたいですが、その分キャンセルがとても増えて困りました。
一つ星が取れた要因は何だと思いますか。
人のつながりを大事にできたからではないかと。
他では真似のできない仕入れと仕事を評価して頂いたと思っています。今では当たり前になりつつありますが、食材の生産者さんに直接伺い輸出用のルートを確立したことと、社長としても常に店でスタッフと一緒に仕事をできてそれを最適化したのが大きいと思います。
服部栄養専門学校は、木村さんにとってどんな存在ですか。印象に残っている思い出などがあれば教えてください。
料理の職人は狭い世界で閉じこもりがちですが、学校はつながりを外にひろげてくれる大事な存在です。
いつも学校にいない校長先生のハリボテが学校のエレベーターの中に立っていたのが新鮮でした。校長だから学校にいなくてはならないという固定概念ではなく、どこで仕事をするのが学校にとって最大限の効果を上げるのか、ということを学びました。
「海外で働いてみたい」「海外で店を出したい」と考えている後輩は多いと思います。そんな後輩たちにアドバイスをいただけますか。また、海外進出を考えているのであれば、学生時代にこんなことをやっておくといい、日本で修業しているときにこのような技術や感性を磨いておくといい、といったことがあれば教えてください。
海外で仕事をする場合、当然ですが忘れがちなのが自分達は外国人だ、ということです。外国人には就労ビザが必要です。国によってビザの条件は違いますが自分で調べることができます。人のせいにしないで自分で調べることが大事です。料理においてもまさしく同じことです。
そしてなんのために仕事をするのかを建前抜きで向き合うことが大事です。志のためでも良いですし、お金のためでも何の為でも貴賤はありません。人生の本当の目標を自分で自覚しているかいないかだけで心構えが全く違ってきます。和食、鮨の技術においては当然ですが日本が一番秀でています。
料理の分野に関わらず、技術を磨くのがまず最低限。大事なことは目的を理解することです。ただ言われたから洗い物や仕込みをするのではなく、お客さんの口に入る最終地点を理解して何が必要なのかを考える練習を常にしてください。ごみを捨てる、ということでさえも意味があります。これは仕込みだけでなく、仕事仲間の人間関係やお客さんが何を求めているのかを察する練習にもなります。先輩がしてほしいことを考えて感じる力がなければお客さんの要求を満足させることなど到底できません。逆に求められていることを言われる前にできれば、あなたの目的に最速で近づけます。
木村さんご自身の将来の抱負や夢を教えてください。
夢は自分自身で美味しいものを健康で食べ続けることです。できればずっと一緒に食べてくれる人がいてくれますように。妻ですね笑
そのために世界中の生産者の方々とつながりを作るというのが抱負になります。