卒業生の声 近藤 元貴さん
Graduate's Voice
京都で日本料理を学び、“鮨”という食文化の未来に自身の可能性をかけ、独立開業。
鮨 こん藤
大将
近藤 元貴さん
調理ハイテクニカル経営学科/2016年卒業
1995年、東京生まれ。服部栄養専門学校調理ハイテクニカル経営学科を卒業後、京都の「京料理 木乃婦」や六本木の「鮨 由う」で修業。2024年1月、東麻布に「鮨 こん藤」を開業。京都で培った季節感や江戸前寿司の技法を大切にしながら、食材・器・空間までこだわる。
2023年11月に開業した「麻布台ヒルズ」から、歩いて10分ほど。下町風情がわずかに残る住宅街の一角に「鮨 こん藤」がオープンしたのは今年の1月。大将の近藤元貴さんは今年29歳、新進気鋭の鮨職人だ。名刺を差し出すと、きれいに磨かれた爪が目に止まった。
「カウンター商売なので、清潔感には気を遣っています」と気持ち良い笑顔が返ってきた。
「鮨 こん藤」は現在、夜と土曜の昼の営業で、いずれもお任せコースのみ。酒肴5品、八寸、握り、デザートというフルコースである。美食家が跋扈するこの地にあえてフルコースで挑む背景には、それまでの修業で培った経験があったという。 小さい頃から、共働きの両親に代わり弟と自分の昼食を作ることが多かったという近藤さん。「料理が好きで、小学生にしてマイ包丁を持っていました。外食先でも“この料理の隠し味は何だろうか”と考えるような子供でした」
高校卒業後は「手に職をつけたい」と、服部栄養専門学校へ。とくにジャンルは決めておらず、イタリア料理が好きだったため西洋料理マスターコースに進みつつ、日本料理店でのアルバイトも並行した。在学中に友人から勧められて始めた「将来計画ノート」には「29歳でお店を出す」と書いていたそうだ。和食の道へ進むことを本気で意識したのは1年生の時、インターンでのこと。「インターン先だったホテルの和食レストランの料理長から、日本料理が向いていると言われて、その気になって。就職目的でなくてもインターンヘ行かせてくれた学校のおかげです。西洋料理が好きでしたが、仕事として考えたとき“日本料理は包丁技術の世界、包丁の腕一本で何歳になってもやれるんじゃないか”と。日本人として日本料理の基礎を知りたい、という思いもありました」
進路相談室で仲の良い先生から「京都はどうだ?」と提案された近藤さん。「ちょうど“京料理 木乃婦”の高橋拓児料理長の、伝統的かつロジカルで革新的な料理に感銘を受けていた」というタイミングだっただけに、即座に入店を決意。京都へ向かった。「京都では寮生活で、自分の場所といえば二段ベッドの空間のみ。早朝の掃除から始まり、店・仕出し・婚礼の3本軸の仕事量は凄まじく、祇園祭りの時期は連日明け方から深夜で、1日に120匹のハモを捌くこともありました。でも、1年目から大量の魚に触れられたのは、ありがたかった」と当時を振り返る。
「木乃婦」では煮方・八寸場・焼き場が三大花形だ。厳しい実力の世界で、全国から集まる同期や先輩が半分、また半分と辞めていったそうだが「空いた仕事が自分に降りてくるので、僕としてはラッキーでした」と真っ直ぐに言う。1年目に造り場、2年目に弁当場と油場、3年目には厨房の花形である煮方補助と鍋場を、4年目に寿司場、水物(デザート)を任されるまでになった。「とにかく3年と決めて、あとは考えないようにしましたが(笑)、泣きながら服部時代の先生に電話したことも。でも、辞めたいと思った時には、辞めたくなかった」
近藤さんのスピード出世には、もちろん頭一つ抜けた努力があった。「どんなに朝早くても始業の1時間前には店に行き、桂剥きの練習をしたり。料理長が講師を務め、服部学園で開催されていたタカラみりんの講習会にも毎年自費で参加しました。そういうところも見てくれていたのかもしれません」と近藤さん。なぜそこまでストイックになれたのだろうか。「もちろん独立する夢があったからですが、仕事帰りに見知らぬ土地を深夜の風に吹かれながら歩いていると、なんだか細胞が生まれ変わるような、自分が自分でないような不思議な感覚があって。中学高校で所属していたテニス部ではいかにさぼろうか? ばかり考えていた自分だったのに、すごく不思議でしたね」
5年目に八寸場のトップに大抜擢されるも、熟考の末、次の舞台を東京に移すことに決めた。「まずは1年」と次の修業先にはミシュラン一つ星の「鮨 由う」を選んだ。「京都で和食の基礎を積んだ自信はありましたが、店では“日本料理と鮨は全然違う”と言われ、悔しかった」と回想する。
「和食と鮨では魚の塩打ちや酢締めなどアプローチが違います。塩と酢で固くするのか、昆布〆めで軽く脱水させるのか、生っぽい食感に持っていくのか。これが店の味になります」
そんな折「鮨 由う」新店舗へ異動。先輩が抜け、2番手のポジションに抜擢された。1年目で握りも覚え、先輩が自分の店を持つのを横目で見ながら「自分も」と思うようになった。「その頃、自分の店のイメージが鮮明に浮かんできたんです。八寸を出して、一品料理も出して、京都時代に魅力を知った器にもこだわって...。僕なりの鮨屋が出来ると」。現オーナーとの縁もあり、独立に踏み切ったのは学生時代ノートに書いた「29歳で独立」の前年だった。
近藤さんは今「鮨」にどんな未来を見ているのだろう。
「お寿司の歴史は、実はまだ浅い。江戸前寿司とコース料理としての鮨の違いを、職人側もお客様側も、まだあまり明確に差別化できていません。だから勝負する余地がある。若い人にも日本食にたくさん触れてほしい」
失敗も悔しさも夢も、すべて記したノートの次には何が書かれているのか、聞いてみた。
「まだこれからです。今はとにかく席を埋めることとお店を続けることが目標。お客様に満足して頂き、結果的にミシュランをとれたら」来月には後輩がインターンで来て、今度は育てる側になる。いつしか近藤さんが和食を背負って立つ日を、期待せずにはいられない。
※料理王国「2024年8月号」に掲載された記事です。